※本項は、『義経変生譚』に登場する英雄・義経を取り巻く環境と人々をはじめ、様々な情報について解説するためのものである。

 1.“義経”とは何者か?

 源義経とは、鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟である。
 父である源義朝(みなもとのよしとも)の九男であることから、九郎とも呼ばれる。
 平安末期に起きた、当時に政治中枢を握っていた平家の政権と、東国を中心とした源頼朝を盟主とする源氏の勢力との争い――源平争乱(治承・寿永の乱)において、源氏方の勝利を決定的なものへと導いた英雄として知られる。
 源平争乱の終結後、紆余曲折の果てに兄である頼朝に疎まれ、最後は平泉(岩手県)にまで追い詰められて自刃したことから、悲劇のヒーローとして古くから民衆に慕われていた。
 源平争乱中における、ある意味で常軌を逸した活躍ぶりと強さ、そして悲劇的な最期と日本中を駆け巡った足跡から、各地で“義経伝説”とも呼ばれる様々な逸話が語られるようになり、いつしか複数の――そして時には相互に矛盾する――伝承に彩られた人物として伝えられるようになったのである。
 そうした伝説の中には、義経が平泉で死なずにより北まで逃げたというものや、大陸に渡ってジンギスカンになったというものまで含まれている。



 2.人々に愛された義経

 義経はそのヒーロー性から、非常に人々に愛された英雄であった。
 日本各地に彼が「本当に死んだのはこの場所」だという土地があり、墓所やその子孫が住むという地も枚挙にいとまがない。
 ざっと挙げるだけでも、その縁の地は九州、四国、山口、広島、岡山、兵庫、京都、大阪、奈良、伊勢、静岡、鎌倉、平泉、青森、北海道と数多くあり、歴史上は彼が足を踏み入れた記録のない場所にさえ、その伝承が色濃く残っている。
 人々はこの人気の人物が何らかの形で自分に関係ある人間であることを望み、それを伝承という形で後世に残したのである。

▲上へ戻る


 3.義経とは、実際には何をした人間なのか?

 義経は生まれたその翌年に戦で父を亡くし、幼少時は京都で、長じてからは平家でも源氏でもない、ある意味で第三勢力であった平泉の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の下で暮らしていた。
 やがて22歳の時、兄である頼朝が伊豆で反・平家を掲げて挙兵すると、藤原秀衡から借りた手勢を連れて頼朝の下へと馳せ参じた。多くの伝承では、生き別れの兄弟の再会にふたりは涙したといわれている。
 そして頼朝の配下としてその遠征軍を率いることになった彼は、主君である兄の忠実な将軍として辣腕を振るったとされる(実際には指揮を執ったというよりも、自身より古参の部下たちをまとめる名目上の大将であったとおぼしい)。
 とはいえ、この時点での義経はまだまだ頼朝の有力な配下という以上のものではなかった。
 しかし頼朝と同じく反・平家を掲げて挙兵し、頼朝の勢力よりも早く京都入りを果たした木曾義仲(きそよしなか)が皇位継承問題への介入したことから、頼朝勢と義仲勢の間に対立が発生。26歳の義経は兄である頼朝の命を受けて義仲を攻撃し、これを打ち破る。
 この時こそ、歴史上に英雄“義経”が登場した瞬間と言っていいだろう。

 義経は続けて、木曾義仲を討ってからほんの二週間もしないうちに、今度は義仲勢が京都に留まっていた間に兵庫で勢力を回復した平家勢を討つように命じられる。
 ほとんど休む暇も無く義経は兵を京都から出発させ、険しい丹波山地を越えて一ノ谷を急襲する。
 世に名高い、鵯越の逆落としである。
 義経は険しい崖を騎馬のまま駆け下り、平家勢の後背を突いてこれを壊滅に追い込む。
 ほんの一月の間に重ねたふたつの勝利によって、英雄“義経”の名は盤石のものとなった。
 さらに翌年、27歳の義経は暴風雨の中、水軍を編成して瀬戸内海を渡り、四国にあった平家最大の拠点である屋島を急襲する。風雨を隠れ蓑とした奇襲によって、またしても平家は大打撃を受け、四国における勢力を失ってしまうこととなったのだ。
 ――なお、この屋島の戦いにて起きたのが、有名な那須与一による扇射貫きである。平家方は戦いのさなかの休憩中、竿の先に扇を掲げさせた小舟を出すと、「この扇の的を射てみよ」と挑発した。これを射貫けなければ源氏方の名折れになるという状況の中、推挙された那須与一は見事に扇を射貫いている。
 屋島の失陥により、平家の拠点は残すところ長門国(山口)の彦島のみとなった。すでに九州の拠点は押さえられていたことから、ここが平家最後の拠点だったのである。
 義経は再び電撃的な作戦を実行し、約一ヶ月後にこの彦島へと出兵。壇ノ浦の戦いで平家の戦力を完膚無きまでに叩き潰す。
 これにより、平家政権はその力を完全に失ったのである。

 だがこの壇ノ浦の戦いの直後、兄・頼朝と義経の仲は急速に悪化する。
 頼朝の許可なく朝廷から官位を受けたこと。
 自らの職分を超えた越権行為。
 他の頼朝配下の面目を顧みず、その威信を傷つけた行ない。
 命令を無視して、平家の残党を自分の判断で処分しようとしたこと。
 さらにその平家残党の娘を妻に迎えたこと。
 様々に理由はあったが、いずれにせよ義経の存在が今や頼朝にとっては平家以上に自身の立場を脅かす存在となっていたことは確かだった。
 壇ノ浦の戦いから約半年後、頼朝は義経討伐を決定する。たまらず義経は朝廷を味方につけ、兵を集めるために兄である頼朝追討の命を受けるが、戦力となる武家勢力はこれに同調しなかった。
 仕方なく義経は、平家が九州に蓄えていた戦力を使って体勢を立て直すべく、九州へと向かおうとする――すでにこの時点で、義経は旧平家勢の戦力をある程度まで掌握していた。
 しかし暴風雨のために船が進まず、街道と海路を封鎖されたために義経は九州へとたどり着くことはできなかったのだ。
 その上、数日後には官位を剥奪され、諸国に義経を捕らえよとの命が頼朝方についた朝廷によって発布されてしまう。
 義経は奈良の吉野に郎党らとともに数ヶ月隠れるが、結局は暴き立てられてしまい、ここで愛妾であった静御前が捕らえられてしまう。
 何とか寺社勢力の助けを借りて京都の近くに潜伏はしたものの、もはや関西で再起の芽はなく……。
 静御前が捕らえられた翌年、義経は山伏らの助けを借りて平泉へと落ち延びたのであった。この時、彼はまだ29歳であったという。

 平泉に落ち延びても、まだ義経はあきらめてはいなかった。
 義経を引き渡せと平泉に圧力をかける鎌倉に対し、何とかして抗おうと山伏らや比叡山の僧たちを動かし、水面下で活動を続けていたのだ。歴史書には手勢を率いて鎌倉方の軍勢と合戦を行なったとの記録も記されている。
 ――この水面下の活動は、少し前の平安中期の豪族・平将門のそれに酷似しており、何らかの形で日本には権力に抗うある種の伝統があったのだろうと推測される。
 しかし義経を支持していた藤原秀衡の死後、雲行きは確実に悪化していた。藤原秀衡の後継者らは高まる鎌倉の圧力に恐れをなし、少ない手勢で館にいた義経を襲撃。
 義経はその襲撃に抗することなく、妻子を先に楽にした上で自害したといわれる。
 享年は31歳であった。

▲上へ戻る


 4.義経の生きた時代――侍の時代の始まり

 義経の生きた時代――平安末期から鎌倉時代初期は、それまでの日本の常識が変わった時代だった。
 平清盛(たいらのきよもり)の登場によって、それまで日本に掌握していた公家の権威による支配の時代は終わりを告げることになる。
 日本が奈良時代に律令国家となって以降、この国では武よりも権威が尊ばれてきた。しかし権威はもはや権威だけでは成立せず、それを支える武力なしには成り立たなくなって来ていたのだ。
 それを証明してしまったのが、前述の平清盛である。

 清盛は普通であれば到底、政権の中枢になど関与できる立場の人間ではなかったが、その蓄えた武力を背景に政権を奪取。平家にあらずば人にあらずと言われるほどの栄耀栄華を築き上げる。
 しかし同時にそれは、ある意味で砂上の楼閣だった。
 平家と一言で言うと、日本中の平氏すべてが清盛の号令一下に団結し、とてつもない権勢を誇っていたように思えるが、実は違っていた。
 清盛の派閥は平氏でもごく一部のさらにその傍流に過ぎず、本来なら正統の平家とは口も聞けないほど遠い筋に過ぎなかったのだ。
 そんな傍流の清盛が栄華を極められたのは無論、武力のお陰である。だがそれは、逆に言えばそれは武力以外に拠り所がなくても、清盛と同じ場所に行けるのではないかという幻想の源ともなったのだ。
 そしてそんな状況でありながら、既存の権力機構を継承し、利用した清盛はある程度以上、その政権の基盤を武家寄りにすることができなかった。
 そんなことをすれば日本全国規模での当地は不可能となり、様々な勢力が現われて群雄割拠する麻の如く乱れた世が到来することは明白だったからだ。
 ゆえに、清盛は自身の築いた栄華がうたかたの夢であることを知りつつ、この世を去ることとなる。
 そしてその清盛の行ないは結果として、東国の源氏を統領に仰ぐ武家たち――しかもその中心勢力は、あろうことか清盛と同じ平氏の者たちだった――に、武力による政権奪取、または地位の向上を志向させることとなったのだ。
 それまでの公家による支配体制ではなく、武家による武士の支配体制――侍の時代がこの時に幕を開けたのである。

 そんな状況下で、まがりなりにも武家の棟梁として征夷大将軍の座に着くことのできた源頼朝は、武士の力を確立し、権威によってそれを奪われぬよう、各地に守護職(当時は守護人奉行)を配置する。
 それまでの国司とは違い、中央から派遣されてその地の行政を監督するのではなく、直接その地の行政と軍事を指導する役割の者たちである。
 最初は彼らも鎌倉幕府によって派遣された者たちに過ぎなかったが、時代を経て土着勢力と結びつき、やがて後世の戦国大名の基礎を築いていくこととなる。
 しかし当然ながら、権威を武力に下支えさせると言うことは、やがて権威と武の立場が逆転することは不可避だった。結果として様々な事件を経て、次第に鎌倉幕府と将軍の権威は弱まっていき、それぞれの大名や武家が群雄割拠する戦国時代へと移行していくのだ。

 義経が生きたのは、その侍の時代の始まりの時だった。
 彼はまさしく、その権威を下支えする武の象徴であり、同時にやがて来るだろう権威を無視した武の片鱗そのものであったと言える。
 つまりは、清盛によって始まった武家による権威の否定を引き継いだのが義経であり、その危険性に気づいた兄によって義経は討ち倒されたのだと考えていいだろう。

▲上へ戻る


 5.義経の別名とは?

 かつて日本では、節目節目ごとに名を変える文化があった。
 特に幼名から元服を機に成人の名前となる風習は、その人物が社会に受け入れられたことを示す重要なものであったのである。
 その上で、現在も「社長」や「部長」、「教授」、「先生」などと役職名で人を呼ぶ習慣が残っているように、日本は役職――つまり社会的な立場を重んじる文化である。役職はその人物が社会において“何者”であるのかを示すもので、ある意味では個人の名前よりも重視されるものだ。
 これは義経の時代においても同様で、義経もまたその時々の役職名で呼ばれていた。
 そしてさらに、人には渾名のような通称というものがある。親しい人物や一面識もない人間から呼ばれる時には、そうした通称の方が呼ばれやすい瞬間があり、義経もまたそうした通称を持っていた。

・源九郎判官義経
 源は義経の氏である。
 現在の日本では、伝統を廃してすべて「名字+名前」で呼ぶルールとなっているが、かつては名字の他に氏と呼ばれる氏族名があり、名字の他に正式な場ではこれを名乗ったのである。
 そして九郎は、義経がその父である源義朝(みなもとのよしとも)の九男であることから呼ばれた通称だ。
 義経の代名詞でもある判官は役職名のことであり、検非違使の尉(けいびいしのじょう)のことを言った。

・牛若丸
 義経が幼少の頃、11歳で鞍馬寺に預けられるまでの間に呼ばれていた幼名。尋常唱歌の『牛若丸』で有名となり、五条大橋は生涯の従者・弁慶と出会うエピソードはよく知られている――実際にはこの時すでに、義経は鞍馬寺に預けられているため、エピソード的には牛若と名乗っている頃の話ではない。

・紗那王
 義経が11歳の時に鞍馬寺に預けられ、元服までの間の稚児名として呼ばれていた名前。伝説ではこの時期に天狗から剣術や兵法の手ほどきを受けたとされる。

・伊予守
 義経が壇ノ浦の戦いの後に任命された官職。
 伊予(現在の愛媛県)の国司、つまり現在の知事職に当たる。
 当時の伊予は瀬戸内海を牛耳る要衝であり、同時に九州方面、山陽地方ににらみを利かせる立地であった。貿易、産業においても重要な場所で、現代にたとえるなら神奈川県が近い。
 おそらく朝廷は義経を伊予守とすることで、関東の鎌倉勢と拮抗させようと目論んでいたと思われる。

▲上へ戻る


 6.義経が活躍する物語

 歌舞伎を初めとした伝統芸能や小説、絵巻物や物語。最近は映画やコミックに至るまで、義経を題材とした作品は数え出せばきりがないほどである。以下に、その中でも伝統的な作品だけをあえてピックアップして紹介しよう。
 ――現代の作品を並び立てた場合、それこそ数えて切れないほどの数となるからである。

・平家物語
 平氏の栄華と源氏の苦境、その後の源氏の再起と平家の滅亡までを、様々な人々の人間模様を通して描いた軍記物語。“祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり”の書き出しから始まる、どこか無常感を感じさせる物語である。

・源平盛衰記
 『平家物語』の異本(原典を同じくするが、内容に差異のあるもの)で、主に源氏側の描写が加筆された歴史物語。義経の郎党などに関する記述も多く、後の創作物に大きな影響を与えている。

・義経千本桜
 平家討伐の直後から、静御前と別れ、京を落ち延びてるまでの過程を描く人形浄瑠璃、および歌舞伎の演目。英雄義経とその周囲の人々、そして平家の生き残りとの確執など、見所の多い作品。

・義経記
 義経主従を中心とした軍記物語。源義経という人物を掘り下げた、一種の伝奇物語に近い作りになっており、後年の義経を題材にした文学作品や文芸作品に大きな影響を与えている。

・勧進帳
 義経主従が京を追われ、東国への逃げる最中に安宅関を通ろうとした時の一幕を扱った歌舞伎の演目。義経と武蔵坊弁慶の絆の強さを描いた作品として人気が高い。

▲上へ戻る


 7.義経が愛した人物たち

・静御前(しずかごぜん)
 最もよく知られている義経の伴侶。
 しかし正妻ではなく、あくまでも愛妾である。
 日本一の評価を後白河法皇から受けた白拍子であり、義経とは彼が24歳の時に出会い、見初められて妾になったとされている。
 上記の『義経千本桜』ではヒロインとして描かれ、義経との仲むつまじい描写から彼女のことを義経の正妻と誤解しているケースも多々見られるほど。
 鎌倉末期の随筆『徒然草』によれば、彼女の母である磯禅師は白拍子の創始者であるとされる。

・京御前(きょうごぜん)
 義経の正妻。
 武蔵国(現在の埼玉県)の武将、河越重頼の娘で郷御前とも呼ばれた。
 一ノ谷合戦の直後、頼朝の計らいによって義経の妻となった女性で、その背後には東国の武家政権を盤石にしようという頼朝の思惑があったと思われる。
 ――河越重頼は頼朝の乳兄弟だった。
 しかし政略結婚にもかかわらずふたりの仲は良好で、義経と頼朝の仲違い後にはそれが災いして父である河越重頼が頼朝に殺されるという事態に発展する。
 義経が平泉に落ち延びた折りには、単身で義経を追いかけ、その死の間際までそばにあって運命を共にした。

・蕨御前(わらびごぜん)
 壇ノ浦の合戦の後に義経に嫁いだ、平家の姫。
 平家勢の重鎮である権大納言・平時忠の娘であり、平清盛の姪に当たる。
 “北の方”と通称されることもあることから、資料によっては彼女の方を正妻であるとしていることもある――その場合、義経と最期までいたのは彼女と言うことになる。

・久我の方(こがのかた)
 『義経記』において、義経と最期を共にした女性。京御前、または蕨御前のことであるという説もある――養女であったという説。
 久我通親こと、源通親の娘であり、当時の朝廷におけるフィクサーの立場だった父によって、義経を籠絡させる目的で嫁がせられるものの、義経に惚れ込んでしまった結果、彼のことを最期まで第一に考えて行動したとされる。
 久我家は、後に『平家物語』や『義経記』の第一の語り手であった琵琶法師らを支配していた家であり、琵琶法師らは主に喜んでもらおうと民衆に人気のあった義経の味方の立場として、久我家の人間を物語に登場させたのだとされている。

・皆鶴姫(みなつるひめ)
 前述の『義経記』に登場する義経の初恋の女性。
 鞍馬山の鬼一法眼の娘であり、義経は最初、鬼一法眼が持つ兵法書“六韜”を狙って彼女に近づいたという。後にふたりは恋仲となったが、義経が“六韜”を奪って(内容を暗記して)逃げたことから、取り残されてしまう。
 ひとりになった皆鶴姫は、義経恋しさに衰弱して命を落としたという。

・浄瑠璃姫(じょうるりひめ)
 古典芸能である浄瑠璃の語源となった人物。
 彼女と義経のラブストーリーである『浄瑠璃十二段草紙』があまりに人気を博したため、その演目が浄瑠璃と呼ばれるようになった。
 三河国矢矧(現在の愛知県)の長者の娘で、元服後に平泉に向かう途中の義経と出会い、恋仲に落ちた。その後、義経は平泉に向かったために離ればなれとなるが、旅の途中で命を落とした義経を蘇生させたり、絆は離れなかった。
 ちなみにその名は薬師如来(薬師瑠璃光如来)の加護によって授かったことに由来している。

▲上へ戻る


 8.義経にまつわる人々

・一条長成(いちじょうながなり)
 平安時代末期の貴族。義経の母常磐御前を後添えに迎え、一男一女を設けた。奥州藤原氏と姻戚関係にあり、義経が彼らの庇護を受けることの出来た理由とする説も存在する。

・一条能成(いちじょうよしなり)
 一条長成と常磐御前の間に生まれた息子で、義経にとっては異父弟に当たる。兄の出奔後も都で貴族として過ごしていたが、後に義経と行動を共にし、彼の都落ちの際には武装して随伴したとのエピソードを持つ。義経の死後は都に戻り、貴族として生涯をまっとうした。

・今若(いまわか)
 父母を同じくする義経の兄のひとり。今若は幼名で、後年の名は阿野全成。兄頼朝の鎌倉幕府に仕える。晩年は甥の源頼家と対立し、最終的には謀反人とされて誅殺された。

・乙若(おつわか)
 今若同様、父母を同じくする義経の兄のひとり。出家していたが、後に頼朝の平家追討軍に参加し、義円と名乗る。だが、墨俣川の戦いにおいて、若干二十六歳の若さで戦死。

・鬼一法眼(きいちほうがん)
 『義経記』の登場人物のひとり。文武の達人で、兵法『六韜』の大家にして現代の剣術の祖になったと言われる剣術流、派京八流の開祖。義経は鬼一法眼の娘である皆鶴姫の手を借り『六韜』を盗み、それを学んだとされるエピソードで有名。

・平清盛(たいらのきよもり)
 平安時代末期の武士、伊勢平氏の棟梁。娘を当時の帝に嫁がせ、武士として最初に貴族としての最高の地位、太政大臣に上り詰めた人物。後年、夫源義朝を失った常磐御前と、その子供である義経達を庇護している。

・常磐御前(ときわごぜん)
 義経の実の母。元々は九条院に仕える雑仕女(下級の召使い)で、源義朝の愛妾であったとされている。『義経記』および『平治物語』では義朝の死後平清盛の庇護を受け、その後に一条長成の元に後添えとして嫁いでいる。

・玉蟲(たまむし)
 歌舞伎、『平家蟹』の登場人物。屋島の戦いで那須与一に射られた扇の持ち主。平家滅亡後も源氏を呪い続け、那須与一の弟と恋仲になった妹を男ともども毒殺し、自らも自害した。

・那須十郎為隆(なすのじゅうろうためたか)
 弟である那須与一と共に源氏方として参戦した平安時代の武士。義経に船上の扇を射るよう命じられた際に、負傷を理由に弟与一を代理として推薦したとの逸話が『源平盛衰記』に存在する。

・那須与一(なすのよいち)
 兄十郎為隆と共に源氏方に参戦した平安時代の武士。弓の巧者として知られており、屋島にて船の上の扇を射貫いた伝説で知られている。平家滅亡後は源頼朝に多くの荘園を与えられ、平家側についた兄たちを迎え、厚く遇した。

・堀頼重(ほりよりしげ)
 『平治物語』において、義経の鞍馬山脱走に協力した武士。その後も、義経をかくまいながら奥州までの道案内を勤めたとされる、義経古参の配下。

・義経四天王(よしつねしてんのう)
 義経に従った四人の剛勇の武者たちのこと。それぞれの文献や物語などで異説があり、時代ごとに人気によってメンバーが違っている。多くの場合、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、伊勢義盛、亀井重清の四人か、鎌田盛政、鎌田光政、佐藤継信、佐藤忠信の四人のどちらかが義経四天王として呼ばれる。

・武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)
 義経四天王のひとり。剛勇無比の僧兵で、五条大橋(他、異説あり)で刀狩りを行なっていた時に義経に敗北し、彼に無二の忠誠を誓う。その後も義経の側に常に在り続け、自決の際には死してなお門の前に立ち続け、敵を阻んだという。数年前まで一時期、その実在を疑われて架空の人物と思われていたが、現在は実在したと考えられている。

・常陸坊海尊(ひたちぼうかいそん)
 義経四天王のひとりで、元々は近江園城寺の僧。武蔵坊弁慶のライバルとも言われている。義経が奥州で自決した時、たまたま山寺を拝みに行っていた為に生きながらえた。その後の消息は不明だが、一説には人魚の肉を食し、四百年を生きたとの伝説が残されている。

・伊勢義盛(いせよしもり)
 義経四天王のひとりで、義経が鞍馬寺を出て元服し、平泉に向かう途中で部下となった古参の人物。義経の“一の郎党”とも呼ばれ、その信頼は厚かった。元は山賊だったとも山伏だったともされ、非常にフットワークが軽く行動力に富んでいた。

・亀井重清(かめいしげきよ)
 義経四天王のひとりで、弓の名人。熊野地方で勢力を誇った熊野三党のひとつ、鈴木家の出自であり、母親は源頼朝の乳母のひとりであったとされる。義経の最期の時に駆けつけ、運命を共にしたという。

・鎌田盛政(かまたもりまさ)
 『源平盛衰記』における義経四天王のひとり。藤太とも通称された。弟である鎌田光政とともに鎌田兄弟とも呼ばれる。彼の祖母は義経の父、源義朝の乳母であり、源氏の郎党からの信頼は厚かった。

・鎌田光政(かまたみつまさ)
 『源平盛衰記』における義経四天王のひとり。藤次とも通称された。兄とともに義経に従い、屋島の戦いにて平家最強の武将である平教経と戦って敗死した。兄ともども、登場する文献の少なさと父である鎌田政清に男子がいなかったとされているため、実在は疑われている。

・佐藤継信(さとうつぐのぶ)
 『源平盛衰記』における義経四天王のひとり。弟の佐藤忠信と合わせて佐藤兄弟とも呼ばれる。本来は義経が元服後に頼った藤原秀衡の家臣であり、その命によって義経に付き従った。その最期は戦で義経を矢からかばってのものであったという。

・佐藤忠信(さとうただのぶ)
 『源平盛衰記』における義経四天王のひとり。兄とともに主君であった藤原秀衡の命によって義経に随行した。身が軽く、義経の足について行ける数少ない家臣であったようで、猫とも呼ばれることがあったらしい。『義経記』では囮となって自らを犠牲に義経を逃亡させている。

▲上へ戻る